社長の呟き 2021年1月~12月号(日本橋倶楽部会報 ”はし休め”より)

はし休め

日本橋倶楽部会報1月号(第496号)

【一月号】                        

「初夢」

 元旦から2日の夜までに見る夢を初夢とし、一年の吉凶を占う。しかし昨年、吉の初夢を見た方々の予想はコロナの為にことごとく外れてしまった。覚醒すると一瞬にして忘れてしまう夢の分析を心の病の治療に役立てようと研究したのがユダヤ系オーストリア人、ジークムント・フロイトである。「精神分析学」を創始した彼は、抑圧され無意識下へ封印された精神的苦痛は病気という形をもって表面化し、それを再認識させることで治癒できると提唱して、「夢分析」や「自由連想法」によりヒステリー患者などの治療を試みた。閑話休題、いつだったかの夢。「日本橋老舗の旦那衆が小料理屋のL字カウンターに居並び、新年会をやっている。順に近況報告をすることになり、私の番が来るが、何故か抜かされ左隣の老舗眼鏡舗のM田社長が話始めた。しかし『2年前に急逝したのでは?』と私が彼に声をかけると、ムッとして席を立ち、暖簾を掻き分け悲しげに去っていく。一同後姿を見送った後、次の人に番が移る。『おいおい、俺はまた無視かよ』と皆に問うが、誰人気付きもしない。『そうか、俺も昨年・・・・・ !』」。この夢の分析はいかに?

本年もご拝読の程、よろしくお願いします。 小堺

 

はし休め

日本橋倶楽部会報2月号(第497号)

【二月号】 

「袖触れ合うも」

新型コロナウィルスの脅威に晒されて早一年。昨年を振り返ると愕然とする事象に気付かせられる。毎年平均十数回は参列する葬儀は一度も無く、結婚式出席は一度だけ。テレビや映画を観ていてもノーマスクか着マスクかで、コロナ前か渦中なのかを見極める習慣が染みついてしまった。かつての木造日本橋を描いた浮世絵の橋上を行き交う市井の人々の姿に「袖振り合うも他生(多生)(たしょう)の縁」の言葉がふと思い浮かんだ。「多生」は幾度も生まれ変わる輪廻、「他生」は自分の過去、未来を意味する。「一期一会」を大切にする仏教の訓えだが、コロナ禍によりこの輪廻転生を感じる機会を全く奪われてしまった。今月は一月の阪神・淡路大震災と三月の東日本大震災の追悼に挟まれた月である。それぞれ合わせて二万五千人近い尊い人命が奪われた。一方、小欄を書いている時点でCOVID19による犠牲者は四千四百名程。人間らしさをことごとく奪い去るこの目に見えない敵に人類は“袖振れ合う”ことさえ許されない。「盃触れ合うも大小の宴」を人生訓として生きてきた小欄にとってこのもどかしさは筆舌に尽くしがたい。     小堺

 

はし休め

日本橋倶楽部会報3月号(第498号)

【三月号】 

「あいまいな別れ」

戦後の日本に未曾有の爪痕を残した東日本大震災から今月で丸10年の年月が経とうとしている。災害発生後、全国の警察官、消防士など延べ142万人が岩手、宮城、福島の3県へ派遣され、行方不明者を捜索したが、昨年その任務を終了した。死者15,884人、行方不明は未だに2,640名に上る。一方、本年1月で26年を経た阪神・淡路大震災の死者は6,434人、行方不明者3名。この行方不明者数の差は津波がもたらしたものに他ならない。行方不明者とは「所在不明かつ死亡の疑いがある者」を指す。遺体も見つからない家族や友人の突然の別れに死を受け入れられず、今でも隣の部屋で寝息を立て、 いつものようにあの声で呼びかけられ、ふと町で見かけ咄嗟に後を追い、そして我に返る。「どこかで生きているの?」予期しない喪失に罪悪の意識すら感じてしまう。

現在のコロナ禍でもこの「あいまいな死」に対する心のケア―が課題となっている。別れの言葉も告げることもできず、葬儀すら立ち会えないまま、多くの人々が逝ってしまった。今月は日本橋を渡りながら、沢山の懐かしい声に耳を澄ませ、そして「さよなら」と呟いてみよう。 小堺

 

はし休め

日本橋倶楽部会報4月号(第499号)

【四月号】 

「マスク時代」

2020年の日本のマスク市場は5020億円、2019年の12倍の規模となり、「鬼滅の刃」に続く昨年のヒット商品2位となった。もちろん世界中でも巨大な市場となり、感染者の多いスペインでは一早く法律により、着用が義務化された程だ。しかし、かつて日本を訪れる外国人は日本人が日常マスクを着用する姿を異様に感じていた。米国では昔から口を覆うマスクは正に幌馬車を襲わんとするギャングを連想させ、目だけを覆う「ローンレンジャー」や「バットマン」だけがヒーローであった。欧州でもエドガー・アラン・ポーが小説「赤死病の仮面」の中でマスカレード(仮面舞踏会)に乗じて忍び寄るマスク(仮面)に隠れた疫病を描いている。一方日本では口だけを覆う「鞍馬天狗」や「月光仮面」は英雄だった。新型コロナは欧米の英雄の姿をも変えさせようとしている。先日、マスクを忘れたことに気付き、あわてて求めに入った店にはデザインに凝った布製マスクが展示されていた。ここまで商品が進歩したのかと、感慨深く手に取って肌ざわりを確かめようとした矢先、訝しげに近づいてきた店員が声をかけてきた。「女性用下着をお探しですか?」 マスクが無いと突然パニックに陥る。 小堺

 

はし休め

日本橋倶楽部会報5月号(第500号)

【五月号】 

「江戸の醤油と東京のソース」

醤油は味噌の醸造過程で出る溜り汁を調味料として使い始められた。江戸の人口が増加すると、上方から大量の醤油が日本橋小網町に運び込まれる。関西の薄口醤油は昆布出汁の風味を活かす京料理には良く合うが、醸造時間が短いため塩分は反って高い。この高価な下り醤油に代わり、野田や銚子で作られた風味の強い濃口醤油は江戸の三大フード・ 鮨、蕎麦、天婦羅の付け汁として、忽ち市井の人々の舌を虜にした。しかし、今や東京のおでんは薄口醬油を使う”関東炊き”に席巻されてしまい、あの真っ黒な竹輪麩や大根には中々お目にかかれない。明治になり洋食化が進むと、今度は東京下町が高価な英国ウスターソースに代わる香辛料や野菜エキスなどをブレンドしたソースを産み出す。肉屋の店先に置かれたソースをたっぷりとかけた揚げたてコロッケの味は今でも忘れられない。学生時代に通った洋食屋ではソース・ライスが定番の隠れメニューであったし、未だにトンカツ屋の厨房の片隅にある一斗缶のラベルを盗み見る癖は抜けない。ところで、マスターズ覇者の松山英樹は醤油顔なのかソース顔なのか?あのポーカーフェイスには脱帽である。 小堺

 

はし休め

日本橋倶楽部会報6月号(第501号)

【六月号】

「澁澤の青天」

 NHK大河ドラマ「青天を衝け」は深谷の藍玉の製造販売をする農家に生まれた澁澤榮一が一橋慶喜に仕官し、激動の江戸末期にパリ万博随行で得た見識を下に明治日本の近代化に活躍していく姿を描く。第一国立銀行を始め約五百の会社や団体の創立に関わった榮一は後に”日本資本主義の父”と呼ばれることになるが、「榮一、近衛篤麿等ト共ニ社交機関タル日本倶楽部ヲ創立セント謀リ、是日、貴族院議長官舎ニ於テ発起人会開カレ、榮一副会長ニ選バル。」(澁澤榮一伝記資料)、「日本橋倶楽部員大倉喜八郎ら其他の諸君発起と為り、青渊先生並に令夫人を主賓とし、十四日午後六時より日本橋倶楽部に於て送別会を開きたり」(竜門雑誌 明治42年9月)などと当倶楽部との関係も深い。彼が立ち上げた地元深谷の「日本煉瓦製造」は東京駅、日本銀行、銀座街区などの建設に大いに貢献した。また藍栽培が盛んであった深谷では、藍の暴落を機に葱の栽培に着手し、ついに生産量日本一となった。葱を”あお”とも呼ばれることから、故事「”あお”は藍より出でて藍より青し」は翁の深谷との因縁を言い得て妙である。日銀近くの国指定史跡「常磐橋」の修復が五月に完了した。同公園内のステッキ姿のブロンズ像は自詠の漢詩”青天を衝く”が如くコロナ禍の令和を応援しているようだ。 小堺

 

はし休め

日本橋倶楽部会報7月号(第502号)

【七月号】

「禁酒法時代」

東京の夜に酒を供する店を探し求め、アル”チュウ”ハイマー達が”百合オット”捜査官と「アンタッチャブル」の影に怯えつつも路地裏を徘徊している。1959年~63年まで米国で放映されたTVドラマシリーズ「ジ・アンタッチャブルズ」は日本でも1961年から「アンタッチャブル」として放映され、大人気を博した。また1987年公開の同名映画を観て、米国史上最悪と言われた1919年の「国家禁酒法(ボルステッド法)」を知った世代も多かろう。(この映画では昨年亡くなった名優ショーン・コネリーがアカデミー・助演男優賞を獲得している)ノルウェー移民の子であった「エリオット・ネス」は実際にはFBI(連邦捜査局)ではなく、財務省・酒類取締局の捜査官であり、皮肉にも晩年はアルコール依存症となってしまう。また”カポーン”と発音しないと米国では通じないマフィアのボス「アル・カポネ」は禁酒法では起訴されず、脱税罪で投獄されている。この禁酒法は主に人里離れた山奥で密造された「マウンテン・デュー(山の雫)」や「ムーン・シャイン(月の輝き)」と呼ばれたウィスキーを密売したマフィア組織を反って巨大化させてしまい、1933年に廃止される。コロナ禍の日本の過剰な飲酒制限を憂い、密かに盃を伏す。 小堺

 

はし休め

日本橋倶楽部会報8月号(第503号)

【八月号】

「蛍の光」

 新型コロナ感染防止のため、昨年から各地で蛍狩りは中止されているが、むしろ蛍にとっては”光”都合なのかもしれない。米映画「哀愁」(原題”Waterloo Bridge”1940年)は前年の「風と共に去りぬ」でオスカーを手にしたヴィヴィアン・リーとロバート・テーラーの悲恋物語である。劇中のダンス曲として使われていたのがスコットランド民謡にして、準国歌でもある「オールド・ラング・サイン」。ハイドンやベートーヴェン、シューマンも編曲を手掛けている程で、日本でも1881年に小学唱歌集に「蛍」(蛍の光)として採用されている。この映画の日本公開は勿論、戦後の1949年。古関裕而による編曲「別れのワルツ」は架空の”ユージン・コスマン楽団”なる名前でレコード発売され、大人気を博している。また劇中”幸せのお守り”として登場する「ビリケン人形」は1909年頃に米国から日本に伝わり、大阪の遊園地「新世界」で”足の裏をかいて笑えば願いが叶う”と名物になっている。”ビリケンさん”を発見した大阪人は小躍りして喜んだことだろう。1964年の東京オリンピック閉会式では照明を落とした後も大合唱「蛍の光」は中々消え入ることがなかった。今月の閉会式も楽しみである。 小堺

 

はし休め

日本橋倶楽部会報9月号(第504号)

【 九月号】

「厨房のもう一つのオリンピック」

7月23日に開幕した2020東京オリンピックから東京パラリンピックへとリレーされ、3ヶ月にもわたった56年ぶりの大イベントもいよいよ9月5日に閉幕となる。1964年の東京パラリンピックは11月8日から12日まで行われ、日本は卓球男子ダブルスで金メダル、米国は50個の金を獲得した。その開会式が行われたのは進駐軍に接収され、「ワシントンハイツ」と呼ばれた827戸の米軍住宅が返還された後に完成した選手村であった。会期中の利用者7000人、延べ60万食と言われた短期村民アスリートの胃袋を24時間満たした場所は4人のサムライ料理長と全国から招集された300人のシェフが格闘した「桜」、「女子」、「富士」の3つの食堂。とりわけ「富士」は最年少の42歳、帝国ホテル料理長・村上信夫に託されていた。祖国の力めしが食べられず、本来の実力が発揮できない小国の選手に満足できる味をと奮闘していた村上の”もてなし”の美学に触発された学生アルバイトも大勢いた。卒業後、東京會舘の西洋料理の道に進み、名職人と言われながら、2020東京オリンピック開催直前に早世してしまった人形町の老舗「七七七(喜)寿司」の三代目、油井隆一氏もその中の一人であった。小堺

 

はし休め

日本橋倶楽部会報10月号(第505号)

【 十月号】

「オリンピック見えない観客」

昭和39年10月10日、前日の台風による豪雨は奇跡的に止み、古関裕而作曲のオリンピックマーチが高らかに演奏されると94ヵ国の選手団の入場が始まった。原爆投下の日に広島に生まれた早大競争部の坂井義則により聖火台に火が灯もされると、雲一つない青空にブルーインパルスが五色の五輪マークを描いて、1964東京オリンピックは開幕した。柔道無差別級の決勝で神永を寝技で破った瞬間、ヘーシンク(オランダ2010年没)は歓喜の余り、畳に駆け上がろうとした関係者を手で制した。この時、日本柔道の武士道精神は外国人によって示され、世界のJUDOへ国際化されていくきっかけとなった。今大会で73kg級金メダルに輝いた大野は畳を下りるまで雄叫びも拳さえもあげず敗者を労わり、世界で磨き上げられてきたサムライ・スピリットを57年ぶりに日本人に示してくれた。ローマに続き東京大会でマラソン競技を史上初、連覇したアベベ(エチオペア1973年没)はその後、交通事故で下半身不随となり身障者スポーツ選手へ転じる。そして今大会ではキプチョゲが史上3人目の連覇者となった。彼ら二人は見えない観客として東京を応援していたとしか思えない。小堺

 

はし休め

日本橋倶楽部会報11月号(第506号)

【 十一月号】

「指先の読書週間」

起きぬけの朝、手首に触れる腕時計に冷っと秋の気配を感じる頃となった。先月27日より始まった”読書週間”は今月9日まで続く。昭和22年、”文化の日”の前後2週間を定め、読書推奨により平和的な文化国家を目指すとしたこの行事は全国に拡がっていった。しかしそのルーツは関東大震災の翌年、灰燼に帰した東京の復興を出版物で後押しようとした行事に遡る。その後、”図書館週間”と改称され、出版界の「図書祭」と一体となって現在の「読書週間」に繋がっている。読書の習慣は災禍と戦禍からの復活の励みに成り得た。さて通勤電車の乗客の9割以上はスマホでゲームかSNSに夢中だが、長引く新型コロナ禍に空いてきた車内ではリアル読書の姿を多く見かけるようになった。勿論スマホでの電子読書は多いが、その殆どは漫画である。やはり流行や売れ筋が分かる本屋での出会いは楽しいし、本の重さや手触り、その匂いは脳を活性化すると言う。スマホを操る指はせわしくて気品に欠けるし、親指を舐めて本を捲るオッサンは見るに堪えないが、細い指先で上部から滑らすようにページを操る女性にはあっち向けホイッと妖艶にかわされるまで見惚れてしまう。 小堺

 

はし休め

 日本橋倶楽部会報12月号(第507号)

【 十二月号】

「真の江戸っ子逝く」

 喪中案内が十一月から舞い込み始めると、師走に向かう淋しさを否応なく感じる。昨今は人生終活の一環として”年賀状じまい”のお知らせも混じり、さらに今年は環境問題に配慮した”賀状廃止通知”が目立つ。新型コロナウィルスは最期のお別れまでも奪い、”虚礼廃止ウィルス”に進化して、感染を拡大しているとは悲しい。そんな矢先の訃報は耳を疑うものであった。前理事長・細田安兵衛氏が十一月に逝かれた。江戸っ子とは三代以上続き、水道水の産湯につかい、江戸の真ん中に育ち、勇み肌、歯切れの良さ、さっぱりとした気風の者のこと。身内に江戸っ子は多くいたが、「ひ」と「し」の区別がつかず、けんか早いなど山の手に憧れを持っていた小欄は傍らでしょっちゅう恥ずかしいと思っていた。今でも”わざとらしい”江戸弁を耳にすると、小首をかしげてしまう。しかし日本橋ををこよなく愛し、老舗旦那にして遊び心を緩急に心得ながら、その人柄で周囲を魅了しながら昭和・平成・令和を歩まれた安兵衛氏ほど洒脱で上品な生粋の江戸っ子には巡り合えなかった。幼名は恕夫(ひろお)さん。意味は相手を思いやって許す。例年頂いていた賀状を手にすると不意に文字が滲む。小堺